昭和49年02月09日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねば良し。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 しっかり信心の帯をしておきませんと、ちょっとした悪口を言われても、言い訳をする。すぐそれを、腹を立てるでは信心にならん。神様が見ておいでである。神様が聞いておいでであるということを、確信することが信心ですから。神様が見てござる、聞いてござるという確信を、いよいよ持たせて頂きたい。ところが人間はなかなか人情があります。人情で思う時に、それが失敗するわけであります。
 昨日安東さんが二度目のお参りをなさった時、こんなお届をなさっておられます。先生私は三代金光様のお話を聞かせて頂く度に、今ここの上を飛行機が通っておりますな。あの飛行機がどうぞ無事に目的地に着いて、また無事に帰還が出来ますようにお願いをしますのじゃと。御結界奉仕をしながら子供が泣いていますと、何かどこか痛い苦しい所があるんじゃなかろうか、どうぞ楽にしてやって下さいと言うて願うのじゃと仰る。
 そういう話を何時も聞かせて頂きますから、親先生実は私も本当に飛行機が通っておる時などは、金光様と祈らなければおられませんと、こういう話をある共励会かなんかで話された。そしたらある人が言われることに、安東さんそれはあまりもの信心ですよ。金光様はそうだろうけれども、親先生はそうかも知れんけれども、あなたの程度でそげな事祈ってからと言われたと言う。
 大体先生どっちが本当でしょうかと言われた。どっちもしらごと、どっちも本当だと、私は申しました。嘘でもないかと言うて本当でもない。今日の御理解から頂きますと、金光様のは、どこまでも徹底した神情なんです。あなたのはちっと人情過多の方ですね、皆さんご承知のように、本当に親切深いと言うか人情が、ダブダブしとるように感ずるです、私共から言うたら。
 けれどもどこまでもあなたのは、神情じゃない人情だ。だから本当言うたらそういうことはやっぱほんなこっちゃないでしょうね。金光様のは神情です。勿論それに近付かせて頂くおかげを頂かねばならんのですけれども。ま少し自分の足元のところ、自分の心の状態のところから、もっともっと人情から神情に、変わって行かなきゃいかん。その神情というのは場合にはです、本当にあれは人非人だと言われるような心があります、神情の中に。この辺も大変難しいことですよと言うて話ました。
 昨日熊本から手紙がきた。名前が書いてない。京町口布教所と書いてある。これは全然私知らんからどこじゃろかと思いよった。それから開封してみましたら、何のひろ子さんからでした。高瀬ひろ子さん高瀬ひろ子先生。ここで修行しよりました女の先生です。これは必ず毎月お月次祭たんべんに、三千円の鯛のお供えをして下さいと言うて、四回分必ず送ってくるんです。いつも高瀬ひろ子と言うてくるから、私はあちらの教会が、どこにあるか何て言う布教所か知らなかった。
 開けて見たらそれだけの事が書いてある。それこそ行の様に送ってきておる。この頃熊本に参りました時に聞かせて頂いた話なんですけれども。隣接教会が全然ここで布教すると言うても、皆が同意書を書かん判を押さん。そこで直接本部に言うたそしたら同意書を書かない理由を書いて貰えと言うものでありました。だからまた回ったんですねどういうわけ同意書を書きなさらんか訳を書いて下さいと。私はどうでもここで布教するんだから、布教しちゃならんという規則はないわけなんです。
 だからあなた方が反対なさるなら、その反対の理由のものを書いて下さいと言うて周囲の教会を回った。それでどこもしょう事なしに是ばっかりは、書かん訳にはいかん訳同意書じゃないですから。こんな訳だからと言うて書いた。そしてそれを持って御本部へ行った所が、それが一つとして布教するのに反対する理由は一つもなかった。だから直接許可が下りてきたんです。そりゃ近所の教会からそれこそ信心気違いのように言われた。まだ二十幾つの高校時代違ってましたからねこの人は非常に霊徳に優れている。
 小学校の時代から教会にお参りをするに、裸足参りをするという位な人でした。そしてどんどん霊徳に触れて行く。誰が何と言うてもで、神情一つで行、だから人が助かる。此の頃から欧州旅行をしたり、ハワイ旅行をしたり致しまし、信者を連れて。と言う位におかげを頂いておる。それで教会になろうと思えば、何時でも教会になれるけれども、教会には神様はまだなすなと仰るから布教所でおる。
 こういう事なんかは私は良い悪いは別として、神情一つで行かなければ出来るこっちゃないです。神情一つで行きゃですそこに自他共に助かるです。誰が何と言うてもけれども、安東さんの場合はあんたのは人情だ。普通から言や人情の言うなら情け深い人と言う事になれば、人は喜ぶかもしれんけれども、助かると言う事にならんです。もう少し神情の方を。それこそ泥棒だと言われても、乞食だと言われてもと同じ事なんです。様々なありとあらゆる悪口私共でもやっぱそうでした。
 けれども神様の仰せには背かれないという生き方。人が何と言うても是を徹して行く、それは神様を信じておるから出けたんです。所が中々この人情を抹殺する、無くすという。私もどちらかと言うと感情過多の方で、大変苦しんできた。本当にそれは今でも苦しむ。けれどもおかげを頂いて段々、おかげ頂いてきましたけれども、人情では決して助からん。人情過多症ですね。
 それが神情に変わって行った時に、自分が助かり人も助かってくる。だから安東さん本当とも嘘とも言えんけれど、自分の人情を一遍取り除く事を、先になさる方がいいです。厳しいです、それはあなたにとって大変返って難しい事でしょう。けれどもそうなさらなきゃいけませんなと言うてお話した事でした。昨日私が金光青年の、小冊子を送ってきますから、読ませて頂いておったら、筑紫本郷の教会長先生が、書いておられる事が載っておりました。「私と初代甘木の教会長」と題して書いておられます。
 素晴らしいお話が出ていました。それにこう言う事が書いてあります。あちらの奥さんは西福岡教会の、お嬢さんがみえておられます。西福岡教会から来ておられる。ある時に西福岡教会の親奥さんが、大変ひどい病気にかかられた。それで甘木の親教会に直ぐ本郷の奥さんがお願いに行かれた。そして只今から福岡の方へ看病なり見舞いなりに参りたいと思いますからというお届をされた。そしたらけんもほろろに親先生が仰った「あんたが行って病気が治るな」と仰った。そして横におられた親奥さんが「あのね病人が重態の時には、見舞えに行くと返って病人な迷惑するばい」ち言わっしゃった。
 そして二人ながらついとしてから立たれた、その冷淡と言うか冷たい仕打ちにあって、本当に泣く泣く本郷まで帰ったち言う。帰って御神前に額ずかせて頂いて、とにかくお許し頂かなかったもんだから、最終の電車の音を聞く。本郷ですからね。電車の音を聞くたんべんにこの電車に乗ろうか、この電車に乗って行こうかと思うたけれども、親先生からそう言われたから、とうとう行かれなかったと。
 本当に何と言う本郷の親先生夫婦は冷たいお方じゃろうかと思うた。その当時は甘木から本郷に、月次祭の時には親先生がお見えだそうですね。その次のお月次祭に見えた時、西福岡の親奥様が、全快で床上げが出来たというおかげを頂いておられます。そしたらその時に親先生が見えて、芯から良かったなっち言うて喜こばっしゃった。私だんこれはもう本当に甘木の初代の信心が、天地の御恩徳と言うならば、誰よりも広く誰よりも深く分かっておられるからこそ、ああいう大徳を受けられたと私共は信じております。
 だから枯葉枯枝一枚でもお粗末になさらなかった。と同時にです冷徹なと言うか、本当に人情というものを振り捨てきって、お取次ぎをなさっておられる。それは子供であろうが嫁であろうが、問題はおかげを頂かなければならない。そうなぁそら早う行ってと私共なら言う事だろう。しかしこういう人情を使わんですむほどしに、これは真似だけはいけんのですからね。
 私が甘木の先生の真似をしてから、私共の嫁がです東京にお父さんが病気だから帰りますと言うて、あんたが行って治るなら、とても私は言やきらんです。それだけの信心が出来ていないのです。さぁ私がしっかりお願いをしとくけん、御神米ば頂いてさぁ早よ帰りなさい。飛行機で帰りなさいと私ならこう言うでしょう。そこに甘木の親先生の信心の偉大さというものがあるわけです。神情一つでおいでられた。
 だからそういう心が出来て、初めて飛行機が通っておる。どうぞ無事にというのでなからなければ、なぁにんならんち言うこと。だからとてもそれ、一足飛びに出来るとは思われませんけれども、一つ一つです修行中の時分に、人が馬鹿と言うても乞食じゃと言うてもです。私の場合人情を使わなかった。所が段々おかげを頂いてきて、まぁだまぁだ人情過多で自分自身が、時折苦しむ事がある事を思うてです。どうでも一つ神情一つで行けれるおかげを頂かにゃならんなと、まあ思わせて頂いたんです。
 私は今日のこの盗人と言われても、泥棒と言われても、乞食じゃと言われてもと言う事は、これは人情がある間は私は腹が立つと思う。けれども私共が段々神情になって行くことのおかげを頂かせてもろうた時にです。初めて、悪口を言う人の事を祈ってやれるような心も生まれてくるでしょうし、神様が見てござるのだから、聞いてござるのだからと、それを、受けて行けれるという風に思います。
 だから今日はこの五十八節は、大変難しい意味合いにおいての内容を持ったお話を聞いて頂いたわけです。人が泥棒と言うても乞食と言うても、乞食しとらにゃ乞食じゃないじゃないの。人の物取っとらなきゃ泥棒じゃないじゃないの。神様が知ってござるから、辛抱しなさい辛抱しなさいという意味に、大体はここは頂く所でしょうけれどもです。今日私は例えば泥棒と言われてもです。例えば甘木の親先生が、自分の息子の嫁からどうして家のお父さんは、親先生は冷たい人じゃろうか。
 しかも夫婦揃うてどうした冷たいお方じゃろうかと。そりゃ人間ですから温かい人じゃ素晴らしい人じゃ有り難い人じゃと思われた方が良いですよね。あっちは本当中々親切じゃと言われて、とにかく親切過多でかえって、自他共におかげを頂かん信心では、おかげを頂かんのです。それを神情を持って成す時にです。初めて人も助かるのであり自分も助かるのである。お互い人情人間心。とにかく人間心を使わんですむ信心をさせてもらわなければ、本当の良い信心とは言えません。
 信心をさせて頂いておりますと、信心のない人達がとやこう言う場合あります。乞食とか泥棒とかとは言わんでもです。あるお婆さんが毎日お参りをしなさる。そしたらお婆しゃん、またコンコンさんに参りよるの。コンコンなら私げにはうんとあるばのち言うちから言うた。それでモヤモヤしてからその喧嘩した。コンコンさんちは何のち、あんたが言いよるコンコンと、私が参りよるとこの金光様は違うばのちから、まぁ喧嘩をした。これは昔の話そんな話でした。、
 ですから本当に人情で言うたら、腹の立つのが当たり前。それと良く似たような話が、お互いの上にも沢山ありますでしょう。そういう時に腹が立つ様な事では、まぁだあなたは人情過多である。本当に神様の道も知らない、神様のことも分からない、金光様の有り難さを分からない人なんだから。それを受けて流すだけではなくてです。本当に祈らせて頂けるような心こそが神情です。今日私は腹を立ててはならんと言う所をです。人情では腹の立つのが当たり前。
 だからそれを辛抱するという意味ではなくて、辛抱せんですむ。それが神情でいったら人が冷たいと言うても、泥棒と言うてもです。それが平気でおれるようになる。そこにはです私の助かりだけではなくて、相手の助かりまでも必ずあると言う事です。だから力を受けなきゃ出来るこっちゃありません。どうでしょう例えば甘木の親先生が、そんなら早ようお母さんお見舞いに行きなさい、と言われておったらそれは人情ですからひょっとすると助かりなさらなかったかも知れん。
 ところが、徳のない者が、甘木の親先生を真似してです。ほんなら私が家の嫁に、そういう真似をして、例えば言うたとしますか。ところが本当に、お母さんが亡くなんなさった。力がない者が言うと、そういう事になって行く結果になりかねない。そして結局どうかと言うと、本当にあん時に、帰してもらわじゃったから、一生の恨みというものが残る。ここを確信する。ここを信じる所へそれこそあんたが行って、お母さんの病気が治るな、と言う事が言えるのです。
 甘木の親先生は、それを確信してござる。そこにです信心は真似事じゃいかん。金光様の真似を、安東さんがなさった。そして自分もやっぱ有り難い。そういう人情でなら、誰にも負けん、劣らんだけのものを持っておられるから。けれどもそれじゃ人は助からん。ある人がそげなこと安東さんあたりの、金光様ならいざ知らず、親先生ならいざ知らず、そげなこつばあぁたお願いしてと言うて言われた。正しくその通りなんです。神情の確信を持てる信心です。自分が祈ったら、絶対あの飛行機のことを祈ったら。
 絶対行って、無事に帰ってくるんだと言う様な、確信を持ってからの祈りでなからにゃいけん。甘木の親先生が、ここで人情ども出しよったら、お母さんが本当に助からん。そこで飛んでも行きたかろう、また人情ではやりたくもあるけれども、ここは心を鬼にして、あんたが行って病気が治るのと言われた。言われてみれば正しくその通り。それで一生懸命神様にお縋りしたおかげで助かった。
 助かった時には普通の温情に帰っておられる「おかげを頂いて良かったな」と言うて大変喜んで下さったというお話から。今日の御理解のもう一つ底の信心ですかね。泥棒と言われても、乞食じゃと言われても腹を立てちゃならん。辛抱しときなさい、神様がちゃんと見てござるからという程度のものじゃなくて、そのもう一つ底の所のもの。私共の神情が強うなってくる時に、例えそれがどう言う事があっても、どういう風に言われてもです。腹の立つだんじゃないと言う所まで、お互いの信心を進めてみたいですね。
   どうぞ。